名言おみくじ|今日はこの言葉!!

小林正観

二つの死|「肉体の死」と「存在の死」|小林正観名言

二つの死|「肉体の死」と「存在の死」|小林正観名言

二つの死|肉体の死と存在の死|小林正観名言

二つの死|肉体の死と存在の死|小林正観名言


『心を軽くする言葉 宇宙を味方の「か・が・み」の法則』  120ページより

死には「肉体の死」「存在の死」の二種類がある。
「存在の死」とは、存在をすべての人が忘れたとき、 その人の本当の死が訪れるというもの。
いかに死なないかということよりも、生きているうちに自分の存在を証明する何かを残すこと。

お釈迦さまが死の床にあったとき、嘆き悲しむ弟子に、お釈迦さまは「なぜ泣くのか」と叱り、
「私の死を悲しむということは、私の肉体の存在に寄りかかっているということだ、それではいけない。私の教えや真理を、間を歩くときの灯りとして用いなさい。真理を支えとして生きていきなさい」

と言いました。


その後、お釈迦さまは死んでしまったのか。いいえ、死んではいません。その存在 がはっきり語り継がれています。では、聖徳太子は死んでしまったのか。いいえ、やはり死んではいません。では、キリストは死んでしまったのか、あるいはソクラテスは、あるいはプラトンは、あるいは老子は、というふうに考えていったときに、その存在を忘れ去られていない人は、「まだ存在している」と言うことができます。

人は「肉体の死」を避けることができません。
でも、「存在の死」は延ばすことはできます。


そのためには、この世に肉体を持って生きているときに、いかに多くの人に「喜ばれる」存在であったかが重要になるのだと思います。

管理人感想

釈迦が弟子に言った部分は
法灯明
というものです。
釈迦個人を崇拝するのではなく、その教えを灯火(ともしび)として自分で歩いていきなさい。

私の中でも小林正観さんは生きていて、
常に見守ってくれていると思っております。

それでも人間はすべての人に忘れ去られることになっていくがほとんど。
それが存在の死ということになる。

追伸
正観さんは、だから忘れられないことを目的として生きろと言ってはいません。
精一杯の投げかけの中で、相手の方に喜ばれ、結果的に存在の死が長引くと。
多くの人の思い出の中に残る、
結果が最初ではなく、自分がどう生きるかをこなしていった結果という順番になります。

小林正観とは

当たり前の幸せが当たり前じゃない幸せ。|小林正観名言

当たり前の幸せが当たり前じゃない幸せ。|小林正観名言

小林正観さんは私の恩人。
うつ症状のきつかった私に、薫陶を授けてくださいました。

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日本一の旅行作家で、行く先の旅館、ホテルで町おこしなどのお話をしてほしいと言われ、
それに答えているうちに、
年間300回以上の講演会をするはめになった方でした。

経営などビジネスから、スピリチュアルなものまで、
あらゆる分野に詳しい方で、
まさに博覧強記。

トイレ掃除、ありがとう、358など、
正観さんが流行りを作った部分もあります。

◆別ブログ小林正観名言まとめ
https://ananda358.com/kobayashiseikan/message-0-366/

◆小林正観グッズ 販売ページ
ご興味があれば御覧ください。

https://ananda.ocnk.net/

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